長岡禅塾の平塚塾長による連載コラム「禅心禅話(ぜんしん ぜんわ)」。
多くの方に禅の教えに親しんでいただくために、長年の修行と実践から得た禅のこころを、古典や禅語を交えつつ現代の言葉で綴ります。
日々の中で心を静めるひとときにお読みください。
今回の公案
僧が、馬祖に問うた、仏とはどのようなものですか?
馬祖が答えた、非心非仏。
『無門関』第33則

前回の禅心禅話では、大梅の「いかなるか是れ仏」という問に対して、馬祖は「即心即仏」と答えました。今回は、僧の同じ質問に対して、馬祖は一転して「非心非仏」と答えました。
このカラクリは、前者が大梅という傑出した弟子の質問で、今回が一般の僧という違いにあるようです。
「いかなるかこれ仏」という質問は、あまりに本質過ぎて、その実かえって修行者が頻繁に使う常套句に成り下がってしまったものです。修行者たちは、まるで道でもきくように、何の自覚も無く道場主たる師家に、この質問を発したのです。よって、『伝灯録』という語録には次のようにあります。
僧が頭うた、和尚なんとしてか「即心即仏」と説く。師(馬祖)が答えた、泣きじゃくる赤ん坊を黙らせるためだ(修行者どもが「いかなるかこれ仏」とうるさく訊くのをやめさせるため))。
僧が続けた、泣き止んだあとは、どうですか。師が言った、「非心非仏」と。
『無門関』の著者、無門禅師は言っています。そもそも「いかねるかこれ仏」という質問は、盗っとたけだけしい言いぐさだ、と。釈尊も説くように、「一切衆生悉有仏性(みんな仏だ)」というのに、「仏とは何ですか」とは、泥棒がオレは知らんとシラを切るようなものだ、と。
さらに困ったことに、自己の仏性を棚にあげて、誰も彼もが無自覚に「即心即仏」なる名言を、あちこちで言いふらす始末。「即心即仏」に、すっかり手垢が付いてしまいました。そこで馬祖は一転、「非心非仏」と切り返しました。
ところで、「即心即仏」で言下に大悟した大梅法常は、その後大梅山に引きこもってまいました。そこへ旅の僧がやってきて、大梅が馬祖の法を嗣いだ高僧であると知って、近頃、馬大師は「即心即仏」と言わず、「非心非仏」とおっしゃっていますよ、と告げました。それを聞いた大梅は、あのオヤジめ、ひとを惑わし続けているとは。それでもワシはひたすら「即心即仏」だ、と言い切りました。旅の僧は、この顛末を馬祖に告げました。馬祖はそれを聞いて、梅の実は熟したぞ、と大梅法常の仏法を証明されました。
最後に私見をひとこと。「非心非仏」は、単なる「即心即仏」の言い換えではなく、「即心即仏」が日常生活にシッカリと根をおろして、もはや「即心即仏」なるスローガンなど不要になった境地をこそ、「非心非仏」と言うべきでしょう。心も仏もことさら問題にする必要のない大安楽の境地です。
