長岡禅塾の塾頭、長谷川 玄聡 による連載コラムです。
雲水として長年培ってきた禅の知見を、塾生と共に汗を流す日々の暮らしや、数多くの読書から得た気づきと共に綴ります。
今回のテーマ
『よだかの星』
宮沢賢治の短編小説。1921年頃に執筆されたとされ、没年の翌年1934年に発表。

今回は宮沢賢治の『よだかの星』を通して、禅が教える心のはたらきについてご一緒に味わってみたいと思います。
『よだかの星』は、深い仏教思想とくに法華経的な「自己犠牲」「浄化」「菩薩的転生」の反映された作品です。宮沢賢治は、十八歳頃に『法華経(妙法蓮華経)』を読み、強烈な感銘を受け日々の生き方を示す道しるべとしてまた、創作の根源ともしたのでした。
この、慈悲と苦しみが希望の光へ転ずるという仏教的世界観を結晶させた物語を、禅の視点から読み解きたいと思います。
よだかという鳥は、仲間から「醜い」と嫌われ、鷹からは「お前は鷹の名を汚す」と迫害されます。 言われなき偏見や力の論理によって、存在そのものを否定されます。これは、私たちの現代社会にも、そして私たち自身の心の中にも起こり得る痛みなのです。
しかし禅は、こうした出来事を「外側の問題」としてだけではなく、 「心のはたらきが生み出す世界」として見つめます。
鳥たちがよだかを嫌うのは、本当に「醜いから」でしょうか。 禅の立場から見ると、そうではありません。
「醜い」と分けて見る心。 「自分」と「他人」を切り分け、優劣をつける心。 この分別心こそが、世界を狭くし、苦しみを生み出します。
私たちも、知らず知らずのうちに誰かを遠ざけたり、 あるいは自分自身を責めたりしてしまうことがあります。 その根には、同じ分別心が働いているのです。
よだかは、虫を食べて生きる自分を「罪深い」と思い込みます。 ついには「生きていること自体が罪なのではないか」とまで考えてしまう。
禅では、こうした苦しみの根を「自己への執着」と見ます。 「こうあるべき自分」「こうあってはならない自分」 その観念にしがみつくほど、自分自身に手枷足枷を付けて自由を奪い心は苦しくなっていきます。
よだかの痛みは、私たちの心にも潜んでいる痛みなのです。
追い詰められたよだかは、太陽や星々に向かって必死に祈ります。 「どうか私を助けてください」と。
しかし禅は、外に救いを求める心をそっと見つめ直します。 救いは、どこか遠い場所にあるのではなく。 誰かが与えてくれるものでもない。白隠禅師坐禅和讃の中にも遠く求めるはかなさよと、ある様にただ、自分の心のはたらきに気づくこと。 そこから道が開けていくのだと教えます。
物語の終わりで、よだかは青白い星となって夜空に輝きます。 その姿は、禅が説く「放下着(ほうげじゃく)」自己を手放したときに生まれる自由そのものです。
「よだか」という観念が燃え尽き、 ただ光として存在する。
私たちもまた、 「こうでなければならない自分」 「こうあってはならない自分」 その観念をそっと手放したとき、 世界はありのままに輝き始めます。
禅的に読むなら、醜さも迫害も、分別心がつくり出す世界であり、罪悪感は、自己への執着が生む苦しみであるのです。救いは外にはなく、心のはたらきに気づくことが道であって自己を手放したとき、よだかは光となり、自由となる。
よだかの星は、私たちの心が本来持っている光そのものであるのです。
もし私たちが、よだかのように心を傷つけ、 自分の存在を疑うような時があったとしても、 その苦しみは決して無駄ではないと思います。
禅は、苦しみを消し去ろうとは言いません。 ただ、その苦しみを生み出している心のはたらきを照らしなさいと教えます。照顧脚下 池の水が波立っていると、底は見えませんが、 波を押さえつけたり、底を探そうとしなくても、 水が静まれば、底は自然と見えてきます。
よだかが星となったように、 私たちの心の闇もまた、 照らし方によっては光へと転ずるのです。
どうか皆さまの心が、 今日も静かに、そして確かに、 自らの光を放ちますように。
