長岡禅塾の平塚塾長による連載コラム「禅心禅話(ぜんしん ぜんわ)」。
多くの方に禅の教えに親しんでいただくために、長年の修行と実践から得た禅のこころを、古典や禅語を交えつつ現代の言葉で綴ります。
日々の中で心を静めるひとときにお読みください。
今回の公案
「坐禅して何をか図る (どういうつもりで坐禅をするか)」
『五燈会元』

「即心即仏」、「非心非仏」と、馬祖大師の話が続きましたので、いっそのこと馬大師の青年時代、いわゆる修行僧時代のエピソードを見てみましょう。
馬大師が法をついだ師匠は南嶽懐譲(えじょう)です。ちなみに法系は、インドから中国に禅を伝えた初祖達磨から数えて六代目が六祖慧能(えのう)で、その次が南嶽になり、達磨の七代。八代目という古いお話です。日本では奈良養老年間頃です。
ある日、馬祖がいつものように黙々とひとり坐禅にはげんでいると、師の南嶽がふらりと庭にやって来ました。そして馬祖に話しかけました、「お前さん、どういうつもりで坐禅にはげむのか」。せっかく時間を惜しんで坐禅しているのに水をさすような口ぶりです。馬祖はむっとして、「作仏を図る(さぶつをはかる、仏になろうとしているのです)」と答えました。
すると南嶽は庭に落ちていた瓦(甎)を拾うと石の上で磨き始めました。馬祖は尋ねました、「瓦を磨いてどうするんですか」。南嶽は、「磨いて鏡にするのじゃ」と答えました。馬祖はあきれて言いました、「瓦をいくら磨いたって鏡になるもんですか」。南嶽はズバリと言いました、「瓦を磨いて鏡にならんのなら、坐禅をいくらしても仏になるものか」。
さて南嶽は、弟子の馬祖に何を言わんとしたのでしょうか。
南嶽は厳しい口調で言いました、「お前は坐禅を学ぼうとし、坐仏を学ぼうとしている。もし坐禅を学ぶというのなら、禅は坐禅すれば済むというものではない。もし坐仏を学ぼうというのなら、仏に決まった形などない。何物にも執着しないその教えにおいて、坐相がどうの、無念無想がどうのといった取捨選択などまったく意味が無い。お前がもし坐仏(坐禅して仏を目指す)というのなら、それは仏を殺すことだ」。
禅宗は、教外別伝(きょうげべつでん)といって、伝えるべき教学がありません。例えば、華厳宗は『華厳経』による華厳教学、天台宗は『法華経』による天台教学、法相宗は唯識学などが有ります。よって禅宗の中心修行はむろん坐禅ということになります。それならば馬祖の熱心な坐禅三昧に、南嶽はなぜ鉄槌を下したのでしょう。
最大の問題は、坐禅をして「作仏を図る」です。坐禅をして悟りを目指す、成仏を目指すことがなぜいけないのか。それは馬祖が、自己の心の外に仏を置いて、その超人パワーのような仏を目指して必死に坐禅しいぇいるからです。馬祖の本心と仏心が別者である限地、仏というものは馬祖が勝手に作り上げた偶像にすぎません。のちに馬祖は、悟りを開き歴史的な大禅師になって、修行者たちに次のように言っています。
「汝ら諸人、おのおの、自心これ仏なることを信ぜよ。この心、即ちこれ仏心なり。心のほかに別の仏無く、仏のほかに別の心無し」。
迷える凡夫の心もと、悟りを開いた仏心と本当に同じなのでしょうか。そこを、南嶽が念を押していましたね。
「仏は定相にあらず、無住の法において、取捨に応ぜず」と。
われらは凡夫であって、まさか仏や聖人と同じわけがない、というのが取捨です。若き日の馬祖のように、坐禅をして仏を目指す、というのが、自分と仏とを比べて仏を取り、自分を否定する取捨選択です。仏法は日常生活の中にこそ生き生きと実現しているのです。捨てるものなど何ひとつありません。
