長岡禅塾の塾頭、長谷川 玄聡 による連載コラムです。
雲水として長年培ってきた禅の知見を、塾生と共に汗を流す日々の暮らしや、数多くの読書から得た気づきと共に綴ります。
今回のテーマ
「行く河の流れは絶えずして、
しかももとの水にあらず。」
鴨長明『方丈記』より

鴨長明が『方丈記』の冒頭に記したこの一句は、世界の本質が「変化」であることを静かに告げています。
水が流れ続け、決して同じ形を保つことがないように、人の世もまた、常に移り変わり、留まることがありません。
しかし人は、この無常の世界にあってなお、変わらぬものを求めます。
財を蓄え、地位を得、名声を求め、安心を得ようとする。そして、一度手にしたものを失うまいとして、しがみつき、争います。
無常である世界の中で、何とか「変わらないもの」を手に入れようとする。
そこに、人間の苦しみが生まれるのではないでしょうか。
釈迦牟尼仏は、この人間の姿を深く見つめました。
身体も、心も、社会も、自然も、すべては変化の中にある。
生まれたものは老い、病み、やがて死を迎える。
愛するものとも、いつか別れなければならない。
それにもかかわらず、人は「こうあってほしい」という思いに執着し、変化するものを変化しないものとして握りしめようとします。
仏教が説く「苦」の一つの根には、まさにこの執着があります。
だからこそ、釈迦は無常をなくそうとはしませんでした。
無常を無常のままに見る。
変化するものを変化するものとして受け入れ、そこに執着しない。
そのとき、人は初めて無常に振り回されるのではなく、無常の中に静かに立つことができるのです。
鴨長明もまた、同じ真理を見つめました。
大火、地震、飢饉、疫病、戦乱──。
災厄が相次ぐ時代にあって、人々は権力を奪い合い、富を求め、大きな家を建て、財産を蓄えることで安心を得ようとしました。
しかし長明は、その人間の姿を見つめます。
どれほど大きな家を建てても、火によって焼けてしまう。
どれほど財を蓄えても、災害によって失われる。
どれほど地位を得ても、それは永遠ではない。
人々は無常から逃れようとして、さらに無常と争っている。
長明が見たのは、まさにその姿でした。
だからこそ長明は、世の中の喧騒から距離を置き、一丈四方の小さな庵――「方丈」に身を置きました。
しかし、それは単なる世捨てではなかったのではないでしょうか。
方丈という小さな空間は、無常の世界から逃れるための場所ではなく、無常の世界の中で、自分の心をどこに置くのかを問う場所だったのだと思います。
大きな家を持てば安心できる。
財産があれば安心できる。
名声があれば自分の存在は確かなものになる。
そうした「確かなものを求める心」そのものを、長明は見つめたのです。
そして現代の私たちも、決して変わってはいません。
熊本地震、千葉の集中豪雨、気候変動、パンデミック。
自然の猛威は、私たちが築き上げた「確かな世界」が、実は決して確かなものではないことを思い知らせます。
一方、社会の中でも、SNSの攻撃性、承認欲求、他者との比較、嫉妬、孤独など、人の心は絶えず揺れ動いています。
昨日の評価は今日には変わる。
昨日の成功は今日には過去になる。
フォロワーの数も、肩書きも、財産も、他者からの評価も、決して永遠ではありません。
私たちは千年前の人々と同じように、無常の世界の中で「変わらないもの」を求め続けています。
まるで、千年前の世界が形を変えて、再び私たちの前に現れているかのようです。
しかし、無常を知るということは、何もかもを手放して生きることではありません。
むしろ、すべてが移ろいゆくからこそ、今という一瞬を大切に生きるということではないでしょうか。
花は散る。
人は老いる。
出会いには別れがあり、形あるものはいつか失われる。
だからこそ、今ここにあるものが尊い。
無常とは、私たちから何かを奪っていく原理ではありません。
無常であるからこそ、今日という一日があり、今この瞬間にしかない出会いがあり、今ここでしか結ぶことのできない縁があります。
禅は、無常をなくそうとはしません。
春になれば花が咲き、
夏になれば蝉が鳴き、
秋になれば月が出て、
冬になれば雪が降る。
その移ろいを、移ろいのままに受け入れる。
それが「無常に生きる」ということなのではないでしょうか。
無常を恐れて、永遠を求めるのではない。
失うことを恐れて、握りしめ続けるのでもない。
来るものは来るままに、去るものは去るままに。
その一瞬一瞬を、ただ丁寧に生きる。
それは、あきらめではありません。
変化する世界を変化するままに受け入れながら、その中で自分のなすべきことを引き受けて生きるという、積極的な生き方です。
禅において、修行は特別な場所だけにあるのではありません。
朝、目を覚ます。
坐禅をする。
掃除をする。
食事をする。
人と向き合う。
働く。
そして一日を終える。
その一つひとつの営みの中に、無常があります。
昨日と同じ朝であっても、昨日の自分はもういない。
同じ場所を掃いていても、そこにいる自分の心は少しずつ変わっている。
だからこそ、一日一日を疎かにしない。
無常を知るとは、今日を粗末にしないことなのかもしれません。
無常は、私たちに「何も残らない」と教えるのではありません。
むしろ、何も永遠には残らないからこそ、
今、自分が何をするのか。
目の前の人にどう向き合うのか。
与えられた一日をどう生きるのか。
そのことが問われているのです。
鴨長明が方丈に身を置いたように、私たちもまた、それぞれの「心の方丈」を持つ必要があるのではないでしょうか。
外の世界がどれほど騒がしくても、
人々が競い、争い、比較し合っていても、
その中で自分の心まで同じように騒がせる必要はありません。
無常を止めることはできない。
しかし、無常との関わり方は変えることができる。
争うのではなく、受け入れる。
しがみつくのではなく、手放す。
逃げるのではなく、今ここに立つ。
そして、今日という一日を生きる。
釈迦牟尼仏が見つめた無常。
鴨長明が『方丈記』に記した無常。
そして禅が、日々の行住坐臥の中で実践する無常。
その三つは、時代を超えて一つの問いを私たちに投げかけています。
「無常の世界の中で、あなたはどのように生きるのか。」
無常と争わずに生きる。
それは、何かをあきらめることではない。
変わりゆくものを変わりゆくままに受け入れ、
失われていくものを惜しみながらも執着せず、
今ここに与えられた一日を、丁寧に生きること。
無常と争わず、無常の中に生きる。
そこにこそ、現代を生きる私たちにとっての「方丈」があるのではないでしょうか。
