長岡禅塾の平塚塾長による連載コラム「禅心禅話(ぜんしん ぜんわ)」。
多くの方に禅の教えに親しんでいただくために、長年の修行と実践から得た禅のこころを、古典や禅語を交えつつ現代の言葉で綴ります。
日々の中で心を静めるひとときにお読みください。
今回の公案
「鏡清雨滴声(きょうしょううてきせい)」
『碧巌録』46則

「衆生顚倒して、己れに迷うて物を遂う(しゅじょう、てんとうして、おのれにまようて、ものをおう)」
うっとうしい梅雨時となりました。近年、線状降水帯に避難を余意なくされる方たちも多くおられ、気候温暖化の危惧のひとつとなっております。
しかし、こうした事情は昔にもあったようで、蕪村の句に、「五月雨や 美豆の小家の目覚めがち」というのがあります。五月雨は旧暦五月(現六月)の梅雨ですが、淀川べりの美豆(みづ)村の人々は、長雨で川の氾濫が気にかかって夜もおちおち眠れぬ、という様子をよんだものです。
さて、この雨にちなんだ禅問答をひとつ、見てみましょう。
鏡清、僧に問う「門外、是れ什麼の声ぞ(もんげ、これなんのこえぞ=外の音は、ありゃ何の音だ)」 僧云く(いわく)「雨滴声(うてきせい=雨だれです)」 鏡清云く「衆生顚倒して、己れに迷うて物を遂う(お前さん、血迷って雨だれにとらわれたな)」
何の音かと訊かれたから、素直に「雨だれです」と答えたのに、己れに迷って(自己を見失って)物(雨だれ)に付いて回ったな、と叱られました。何故でしょう?
解らないから、「和尚さんはどうなんです」とムッとして訊き返しました。さてそこで鏡清和尚、もっと解らないことを言いました。「ほとんど己れに迷わず」と。
迷いとは、自分を見失って、あれこれ外の世界に引きずられることです。つまり、本来主人公であるはずの自分、己れが顚倒して、主客逆転して外の世界が主人公となり、肝心の自分が物質や外境に隷属してしまうことです。
『涅槃経(ねはんきょう)』に、一切衆生に等しく仏性があると説かれています。一切衆生とは、自分と外境すべてです。それが仏性つまり仏の立場から見れば同等だということです。己れと雨だれは同等です。同等であれば迷いようがありません。にもかかわらず、鏡清和尚は「ほとんど己れに迷わず」と言いました。本来なら「ワシは悟っているから、まったく迷わん」と言うべきでしょう。
鏡清のすごいところはそこです。ワシは迷わないとは言わない。ときには迷う、外境に引っ張られる。でも、鏡清の言いたいことは、迷っても迷わんでもどちらにも本心は無い、ということです。
そこを鏡清は「出身はなお易かるべし、脱体に言うはまさに難かるべし」と言い足しました。迷いから抜け出し(出身)悟るのは容易だが、迷いも悟りも忘れ果てる(脱体)のは困難だと。「ワシは迷わぬ」では、まだ悟りに執着しています。「ほとんど迷わず」とは、たまには迷うが、そんなことすぐに忘れてしまうよ、ということです。
迷いも悟りも仏性です。自己も外境世界も仏性として一体です。
科学的にも、われわれの血液一滴中に、原子番号1の水素から原子番号92のウランまでのほとんどの元素が含まれています。よって血液一滴と雨だれ一滴は本質的に一つです。
「あの音は何だ」と訊かれたら、さあ、何と答えればよかったのでしょう。
