長岡禅塾の塾頭、長谷川 玄聡による連載コラムです。
雲水として長年培ってきた禅の知見を、塾生と共に汗を流す日々の暮らしや、数多くの読書から得た気づきと共に綴ります。
今回のテーマ
『ジキル博士とハイド氏』の物語

ジーキル博士とハイド氏(作者スティーヴンスン、1850~94年)。これは単なる怪奇小説ではなく、人間の中にある「善と悪」「理性と欲望」「表の顔と裏の顔」を描いた、とても禅的な物語だと思います。
あらすじを簡単に言えば、 人格者として尊敬されるジキル博士が、自分の中の“悪”だけを切り離そうとして薬を作り、試飲する。 そこに現れたのが、残虐で欲望のままに生きるハイド。“悪”の姿に変わったジキル博士は、最初のうちは「これは別人格だから、自分は何も責任を負わなくていいのだ」と思っていた。 しかし次第にハイドの力が強くなり、最後にはジキル自身が呑み込まれていくのでした。
この物語の怖さは、「悪人がいた」という話ではなく、「悪を憎む心こそ悪の根である」という点です。つまりハイドは、どこか遠い怪物ではなく、人間の内側に潜むものそのものなのです。禅的に見るとき、非常に深いことが見えてきます。 (※禅では「根」は静止した“源”ではなく、絶えず働き続ける生命力を指します)
善人が、自分の中の“悪”だけを切り離そうとすることはどういうことか? これは仏教でも心理学でも、そして禅でも非常に重要な事柄です。 では、善人の中にある「善と悪」とは何でしょうか。
善人とは、他者を思いやり、正しくあろうとし、誠実に生きようとする人たちのことです。 しかし、その善良さの中にも、次のような悪が潜むことがあります。 「自分は正しい、あの人は間違っている」という無自覚な優越感や、「良い人でいたい」という心。その心から、正義が攻撃性に変わることがあります。 つまり、「善人であること」と「悪がないこと」は別問題なのです。
禅が教える「悪を抱えた善」
禅では、人間を「良い悪いの両方を抱えた存在」と見ます。白黒に分けず、その両方をそのまま見よと説きます。 これは、“悪を嫌う自分”の中に、同じ性質が潜んでいるという鋭い指摘です。 たとえば、「あの人の態度や言い方が許せない」というとき、その人の中にはすでに執着が生まれていると見るのです。 「他人の利己心が嫌い」という人の中には、自分の利己心への恐れがある。それは、「嫌う心」そのものが鏡だからです。人のためと言いながら、実は自分の承認欲求や「自分は正しいんだ」という優越感が芽生えているのです。
自分の中の醜さ、怒り、嫉妬、名利心(みょうりしん)から目を背けない。むしろ、「自分にもハイドがいる」と知るところから修行が始まるのではありませんか。 ここで思うのは、善悪を無理に切り分けようとするのではなく、怒りも、弱さも、愚かさも抱えたまま、その自分を正直に見つめることに在るのではないか、ということです。
ジキル博士の悲劇は、悪を“外へ追い出そう”としたことでした。本当に必要だったのは、自分の悪を否定することではなく、その悪を見つめ、引き受けることだったのかもしれません。
『ジキル博士とハイド氏』の物語は、「分別の世界」を極端に押し進めた物語とも読めます。 ジキル博士は、善と悪、清浄と不浄、理性と欲望を切り分けようとした。つまり、「善だけの自分」を作ろうとしたのです。これは非常に“分別”的です。
禅では、善を立てれば、同時に悪も立つと見ます。 こうした二元の分別が強まるほど、対立もまた強くなる。 だから禅は、「悪を消せ」ではなく、「善悪を立てて執着する心そのものを見よ」と言う。
これは禅でいう「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」にも少し通じます。煩悩を敵として外へ捨てるのではなく、その煩悩を通して自分を知る。怒りが起きるなら、「怒ってはいけない」と蓋をするのではなく、「誰が怒っているのか」を見つめる。そこに修行があります。
