長岡禅塾の平塚塾長による連載コラム「禅心禅話(ぜんしん ぜんわ)」。
多くの方に禅の教えに親しんでいただくために、長年の修行と実践から得た禅のこころを、古典や禅語を交えつつ現代の言葉で綴ります。
日々の中で心を静めるひとときにお読みください。
今回の公案
お釈迦様は誕生のとき、一方の手は天を指し、もう一方の手は地を指し、七歩ぐるりと歩き回って言われた、天上天下唯我独尊、と。
雲門禅師がこのエピソードを評して言った。
わしがその場にいたら、棒で打ち殺して犬に食わせたものを。さぞや世の中が太平になったろうに。
『葛藤集』 第114則より

4月8日は、お釈迦様の誕生日、いわゆる花まつりです。仏教界挙げてお祝いしますが、相国寺では「浴仏偈(よくぶつげ)」を唱えながら花御堂の誕生仏に、一人ずつ甘茶をおかします。
お釈迦様は、姓はゴータマ、名をシッダルタといい、現在のネパールに近い釈迦族の部族国家の首長の長男として生まれました。推定ですが紀元前463年とされております。生誕地はカピラ城郊外ルンビニー園で、そこで「天上天下唯我独尊」の誕生伝説が生まれたのですが、赤ん坊は誰でも産まれた瞬間、天地いっぱいに産声挙をげて、生命の無垢なる尊さを宣言するわけです。一指天一指地にして七歩周行は、その強調でしょうが、やや度が過ぎたか、後世になって雲門禅師に罵声を浴びせられました。
「そんな生意気なガキ、わしがその場にいたら棒で殴り殺して、犬に食わせてやるものを!さぞや世の中太平になったろう。」
むろん、字義通り受け取ってはなりません。雲門禅師は、釈迦も我らと同じ人間である、偶像崇拝するなと注意しているのです。聖者には伝説がつきものです。しかし、釈迦が雲の上の人間なら、神のような超人なら、我々には直接なんの関わりもないわけで、我々の苦しみ、悦びがゴータマ・シッダルタという人間と同等であるべきです。にもかかわらず、釈迦を偶像に祭り上げれば、一部の悪質な新興宗教のように信者をたぶらかす危険性が生じ、宗教は反社会教団として天下太平をおびやかすことになります。そんなあやしげな宗教は犬に食われろ、と雲門は言うのです。
いっぽう、シッダルタという歴史的実在の人間が「仏陀」と認められ、釈迦牟尼(シャカムニ、釈迦族の聖者、釈尊)と尊称されたのは、彼が超人だからではなく、人間としてこの上なく純粋な人生を送り、我々に生命の尊厳と、苦難に立ち向かう勇気とを与えてくれたからです。
にもかかわらず、「唯我独尊」という言葉は、きわめて誤解を招くフレーズです。直訳すれば、「おれがこの世でもっともエライ」ことになってしまいます。そこで、その自己中心のかたまりである自我肥大の人間を、雲門は棒で殴り殺す、つまり自我を殺して無我に再生させる荒療治をしてみせたのです。まことに胸のすく禅的慈悲行といえましょう。どんな人間も、産まれたときは無我です。その本来の無我を産みつけてくれた父母も本来無我であり、このように無我の連鎖を「諸法無我」といいます。
古人は、雲門をたたえて言っています、「雲門こそ、すべての仏たちに身心を捧げ、報恩としのた」と。この言葉こそ、誕生仏への何よりのはなむけでしょう。底なしの無意識のなかに潜んでいます。それを白日のもとにさらすのが、坐禅というきわめてシンプルな行為なのです。
