平塚塾長・長谷川塾頭による連載コラム「禅心禅話(ぜんしん ぜんわ)」。
多くの方に禅の教えに親しんでいただくために、長年の修行と実践から得た禅のこころを、古典や禅語を交えつつ現代の言葉で綴ります。
日々の中で心を静めるひとときにお読みください。
今回の公案(テーマ)
無事是れ貴人。但、造作することなかれ。祇、是れ平常なり
【読み】ぶじこれきにん。ただ、ぞうさすることなかれ。ただ、これびょうじょうなり
『臨済録』「示衆」より

昔、中国で禅宗は五家七宗に分かれて発展し、さらに細分化されてわが国には二十四流が伝来したといわれています。しかし現代日本禅宗には、臨済宗(黄檗宗を含む)と曹洞宗のみが残っています。
臨済宗の根本語録(根本的な考えや原則をまとめた言葉集)は、中国の唐代に活躍した禅僧・臨済義玄禅師(?~866)の『臨済録』ですね。
さて、今回の禅心禅話ではこの『臨済録』「示衆」から、「無事是れ貴人」という有名な一節をとりあげます。
冒頭の「無事」という語は、茶道においては、よく歳末の茶事の墨蹟として床に掛けられます。一年の平穏無事を謝しての趣向です。
しかしこの「無事」が、ただ平穏無事の意味だとすると、「無事是れ貴人」の真意が通じません。
この語は、内容としては高い境涯(人がこの世に生きてゆく上での立場・姿勢)を指した言葉なのです。
無事という境涯の人こそ貴人です。何故かというと、その究極の貴人は仏陀、すなわち釈迦牟尼仏に通じるからです。
続く「造作することなかれ」というのは、頭でさばくなということです。分別くさく小賢しく、あれこれいじりまわすな、ということです。それが日常の在り方として「平常」といわれます。
これを「へいじょう」と読めば、なんら異変のない普段の心理状態のことをいいます。スポーツ選手がよく使う「平常心でやりとげました」などですね。
しかしこれを「びょうじょう」と読めば、強い自我の束縛、執着心から解放された、絶対自由人の飄々たる生活をいうのです。
それは苦修につぐ苦修によって獲得された、人間存在の最も根本的な透明度です。禅語ではそのような状態を「明歴歴(めいれきれき)」といいます。
無事という境涯にあって、平常たる日暮しを送る人こそ真の貴人というべきなのです。

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