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【禅心禅話】第十一話「即心即仏(そくしんそくぶつ)」

長岡禅塾の平塚塾長による連載コラム「禅心禅話(ぜんしん ぜんわ)」。

多くの方に禅の教えに親しんでいただくために、長年の修行と実践から得た禅のこころを、古典や禅語を交えつつ現代の言葉で綴ります。

日々の中で心を静めるひとときにお読みください。

今回の公案

大梅が、師の馬祖禅師に問うた、仏とはどのようなものですか?

馬祖が答えた、即心即仏。

『無門関』第30則

平塚塾長

仏教は、文字通り「仏の教え」です。仏とは仏陀の略字ですから、まさにゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の説かれた教えです。ですから、「仏とはどのようなものですか?」と問われたら、ただちに「古代インドの釈迦族のゴータマ・シッダルダ、そのひとだ」と答えるべきでしょう。これはまぎれもなく歴史的事実です。

ところが、馬祖禅師は「即心即仏」と言い切ったのです。そこで大梅は、瞬時に大悟徹底しました。これもまた、歴史的事実です。馬祖は、「心そのものが、そのまま仏だ」とサラリと答えて、釈迦のことなどまったく言及しませんでした。お前の心そのものが仏だ、あとは余計な詮索だと。

釈迦牟尼仏は確かに仏教の開祖ですが、アミダ仏、ルシャナ仏などを始め、三千もの仏たちが経典の中でひしめいています。この事態はどうしたものでしょう。結論から言えば、それらの仏たちは仏教の多彩な世界観を表現した方便です。リンゴを食べたことのないひとに、リンゴの姿、色、味、食べ方、栄養など、あらゆる情報を総動員するよりも、も、そのひとにリンゴを食べてもらうに越したことはありません。「仏とはどのようなものですか」と、情報をもらうのではなく、仏を自覚自知するほかありません。

仏だろうが凡夫だろうが、人間に違いないのでであって、凡聖一如です。古人も、「凡心に即して仏心を見る」と言っております。

しかし、「即心即仏」の「心」とは、喜怒哀楽の感情そのままではありません。

仏は、仏陀の略字と申しましたが、そもそもブッダとは「ブッディ、目覚める」から来た言葉で、「目覚めた人」という意味です。何に目覚めた人なのか?真実の自己に目覚めた人です。つまり、喜怒哀楽の感情が発する根源、その根源の無自性に目覚めた人です。迷いも煩悩も悟りもすべて、この無自性から発しますから、煩悩即菩提で、煩悩(迷い)も菩提(悟り)も根源は一緒です。

しかし、現実は違います。煩悩は人を苦しめ、菩提はただそれだけでは何の役にも立ちません。肝心なのは、その無自性から転じて、無自性という自由が自己の主体性になることです。それがただの「即」から、日常生活において素晴らしい自主性になるのです。「凡心(普段の心)に即して仏心(真の自己)を見る」ということです。

「仏とはどのようなものですか」

「日常そのままの心(即心)が、そのまま自己発見(即仏)へと転じてゆくのだ」

しかし、これでは大梅は悟れなかったでしょう。大梅問う、「いかなるかこれ仏」。馬祖いわく、「即心即仏」。大梅、言下に大徹大悟。この「即心即仏」の端的さこそが禅の臨場感です。

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