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【塾頭コラム:第五回】『変身』を禅的視点で読む  

長岡禅塾の塾頭、長谷川 玄聡による連載コラムです。

雲水として長年培ってきた禅の知見を、塾生と共に汗を流す日々の暮らしや、数多くの読書から得た気づきと共に綴ります。

今回のテーマ

フランツ・カフカ『変身』

長谷川塾頭

初めて『変身』を読んだとき、私の関心は「なぜグレゴールは虫になったのか」という理由には向かず、むしろ、虫になった後も彼の心が「会社へ行かなければならない」「家族を養わなければならない」と考え続けていることに強い印象を受けました。

その姿を見ているうちに、私は禅が問い続けてきた「自己とは何か」という問いを思い出したのです。

禅では、自己とは固定した実体ではなく、さまざまな縁や習慣、社会的な役割の中で仮に成り立っているものと考えます。私たちは「父親」「教師」「会社員」「僧侶」といった役割を自分自身だと思い込みがちですが、それらは本来、状況によって変化していくものです。

グレゴールもまた、「家族を支える働き手」という自己像を強く抱いていました。身体は突然虫へと変わってしまったにもかかわらず、その自己像だけは変わることができませんでした。

私は、この作品の苦しみは、虫になったことそのものではなく、「以前の自分であり続けよう」とする執着から生まれているように思えます。

禅では、苦しみは外の出来事そのものではなく、それを受け入れられない心から生じると説きます。その意味で、グレゴールは虫になったこと以上に、「働く自分」「家族に必要とされる自分」という自己像を手放せなかったことに苦しんでいたのではないでしょうか。

さらに印象的なのは、家族の変化です。
働いている間は家族にとっていなくてはならない存在だったグレゴールは、虫になった瞬間、邪魔者として扱われるようになります。

この変化は、人間関係もまた固定したものではなく、さまざまな条件によって成り立っていることを示しているように思えます。禅でいう「縁起」の思想を重ねてみると、「家族」という関係も決して不変ではなく、縁によって結ばれ、縁によって変化していくものとして読むことができます。

だからこそ、この作品は家族愛を否定しているというよりも、人間関係の無常を静かに描いているのではないでしょうか。

物語の終盤、グレゴールは静かに死を迎えます。

私は、この最期を悟りだとは考えていません。しかし、仕事や役割、社会の一員としての人間であることへの執着がすべて尽きたときに訪れる静けさには、禅が語る「執着を離れた心」にどこか通じるものを感じます。それは、自ら真理を悟った解放ではなく、執着が消えたことによって生まれた静寂なのだと思います。

私にとって『変身』は、不条理な物語というだけではありません。それは、「自己とは何か」「人は何によって自分を自分だと思っているのか」という問いを読者に投げかける作品です。禅は、その問いに対して、「自己とは固定した実体ではなく、縁によって仮に成り立つものである」と静かに応えているように思えます。

このように読むならば、『変身』は、悟りそのものを描いた作品ではありません。
しかし、「迷い」がどこから生まれるのかを徹底して描くことによって、逆説的に「悟りとは何か」を照らし出している作品として読むことができるのではないでしょうか。

私自身、この作品を読み終えたあとに残ったのは、「もし私がグレゴールの立場になったとき、何を失うことを最も恐れるだろうか」という問いでした。そして、その問いこそが、自分が何に執着して生きているのかを映し出す鏡なのだと感じています。

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