長岡禅塾の塾頭、長谷川 玄聡による連載コラムです。
雲水として長年培ってきた禅の知見を、塾生と共に汗を流す日々の暮らしや、数多くの読書から得た気づきと共に綴ります。
今回のテーマ
「時間泥棒」
童話『モモ』より

童話『モモ』の作者ミヒャエル・エンデは、1929年南ドイツに生まれました。ミュンヘンの演劇学校を出て、初めは俳優をした後に児童文学作家となりました。
この物語は「時間とは何か、奪われた時間をめぐる本当に大切な生き方とは何か、人の心を取り戻すとは、どういうことか、そして聴く力とは」について書かれた話です。この物語に現れる灰色の男たち、時間貯蓄銀行の灰色の紳士は、人々にこう告げます。「時間の節約こそ幸福の道」「時間を節約してこそ未来がある」「君の生活を豊かにするために効率よく生きなさい」
その言葉に従ううちに、人々は語らいのひととき、ぬくもりある関わり、何気ない静けさを切り捨てていきます。そして気がつけば、人生そのものが味気ないものとなってしまいました。これはまさに、仏教でいえば「有為」の世界、作為と計らいに満ちた生き方であります。もっと良く、もっと早く、もっと多くと、そうした思いに追われるとき、私どもの心は、いつしか本来の在りようを見失ってしまいます。
禅では、これに対して「無為」を説きます。なそうとして、なすのではなく、あるがままに任せて生きること。それは、何もしないということではなく、余計な計らいを離れた、真の働きに成りきることです。
モモという少女は、まさにその姿を体現しております。ただ静かに、人の話を聴く。評価せず、急がせず、変えようともせず、そのまま受けとめる。そこには作為がなく、無為のはたらきが現れています。
鎌倉時代の高僧、明恵上人は、声高に人を導こうとはなさいませんでした。ただ、自らを慎み、あるがままに正しく生きておられた。そのお姿にふれた人々は、いつしか心を正され、整えられていったのでした。これを「威徳」といいます。威厳と人徳は、作って見せるのではなく、にじみ出るはたらきです。
童話『モモ』に登場する少女モモもまた、特別なことをするわけではありません。ただ人の話を、静かに、深く聴く。評価もせず、急がせもせず、その人をそのまま受けとめる。その姿にふれた人々は、自らの心を取り戻していきます。
ここに共通するものがあります。それは、「何かをしようとか、これを、あれをと、自分を乱すことをしない」ことです。禅で申します「無為」のはたらき、人はつい言葉で変えようとか、力で導こうとしますが、しかし、最も深く人を動かすものは、「作為」ではなく相手を思う心そのものであります。
明恵上人の静かな威徳も、モモの無心のまなざしも、どちらも「本来無一物」といえるのではないでしょうか。それは、何も持たず、何も飾るところがなく、清らかでとらわれがなく、何も付け加える必要もないものです。
私達も色々な悩みや苦しみに翻弄されて動くのではなく、何かを起こそうと言う前に、まずは、呼吸を整え心も整えましょう。目の前の全てにおいて静かに向き合うことが出来たならば、人も自分も素晴らしい人生があるのではないでしょうか。多くを語らずともよい、多くをなさずともよい。ただ、まことの心に在るとき、その一念が花開くのです。
私どもは執着があります。本来この執着を捨てきる。ただ「生きる。」
灰色の男たちに奪われたのは、時間そのものではありません。「今を生きる心」それが奪われているのです。この「このいま」においてこそ、いのちが、まるごと現れているといえるのではないでしょうか。
