長岡禅塾の塾頭、長谷川 玄聡による連載コラムです。
雲水として長年培ってきた禅の知見を、塾生と共に汗を流す日々の暮らしや、数多くの読書から得た気づきと共に綴ります。
今回のテーマ
マイナスの中にプラスがある
遠藤周作『生き上手死に上手』より

遠藤周作の著書『生き上手死に上手』の中に、「マイナスの中にプラスがある」という一篇があります。私はこのタイトルに惹かれて以前に読んでいましたが、最近ふと思い出して読み返してみると、人が経験する苦しみや失敗の意味について、改めて深く考えさせられました。
私たちは失敗や困難に出会うと、それを「マイナス」として避けようとしがちです。しかし遠藤周作は、そうした出来事の中にも必ず何らかの「プラス」が潜んでいるのではないか、と語っています。
この考え方は、禅の教えとも深く通じています。 禅では、苦しみや迷いを単に排除すべきものとは捉えず、その中にこそ人が目覚める契機があると考えるからです。「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という禅語が示すように、人間の迷いや苦しみそのものが、悟りへの道となります。つまり、私たちが「マイナス」と見なしている出来事の中にこそ、大切な意味が含まれているのです。
先月、平塚塾長が取り上げた『禅心禅話』第三話にも、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)と馬祖道一(ばそどういつ)の「野鴨子(やきし)」の公案が紹介されていました。
ある日、師の馬祖と弟子の百丈が歩いていると、空に野鴨が飛んでいきました。馬祖が「あれは何だ」と問うと、百丈は「野鴨です」と答えます。さらに「どこへ行った」と聞かれ、「飛び去りました」と答えたところ、馬祖は突然百丈の鼻をつねり、「飛び去ったとは何だ。ここにいるではないか」と言ったといいます。
一見すると奇妙な話ですが、禅では真実は遠くにあるのではなく、「今ここ」にある現実の中にあると考えます。百丈は「飛び去った」と答えましたが、馬祖は「ここにいるではないか」と言いました。これは、私たちが物事を自分の思い込みで判断し、「なくなった」「失われた」と決めつけてしまう心の癖への気づきを促しているように思えます。
遠藤周作の「マイナスの中にプラスがある」という言葉も、こうした禅的な人生観と響き合っているのではないでしょうか。 何かを失ったとき、それをただの「マイナス」と捉えるのではなく、その出来事の中にも、まだ見えていない意味や価値を探してみる。苦しみや失敗があるからこそ、人は他者の痛みを理解し、人生を深く見つめることができるのだと思います。
禅の公案が示すように、真実は遠くにあるのではなく、私たちが生きているこの瞬間の中にあります。 これからは、つらい出来事に出会ったときでも、それをただの「マイナス」で終わらせるのではなく、その中にどんな「プラス」が潜んでいるのかを探してみたい。そうすることで、人生を少し深く、そして前向きに生きることができるのではないかと感じています。
皆さんはどのようにお感じになるでしょうか。
