京都・長岡京にある寄宿制の禅の学び舎

禅塾だより

  1. 禅塾だより
  2. コラム
  3. 【禅心禅話】第三回「馬祖野鴨」

【禅心禅話】第三回「馬祖野鴨」

長岡禅塾の平塚塾長による連載コラム「禅心禅話(ぜんしん ぜんわ)」。

多くの方に禅の教えに親しんでいただくために、長年の修行と実践から得た禅のこころを、古典や禅語を交えつつ現代の言葉で綴ります。

日々の中で心を静めるひとときにお読みください。

今回の公案

馬大師が、弟子の百丈と歩いていると、野鴨が飛び去って行くのが見えた。

馬大師が、「あれは何だ?」ときいた。百丈は、「野鴨です」と答えた。

「何処へ飛んで行くのだ」、と馬大師。百丈は、「飛び去ってしまいましたね」と答えた。

馬大師は、ついに百丈の鼻をひねりあげた。百丈は、「ァイタタ!」と忍痛の声をあげた。

馬大師は言った、「飛び去っただと。ここにおるではないか。」

「馬祖野鴨」『碧巌録』第53則

平塚塾長

今年は午年ということで、馬祖道一禅師(ばそ・どういつ、707~786)のお話です。

インドから初祖達磨大師が中国に禅を伝えて約200年。 禅宗は馬祖によって大いに興隆し、その弟子は84人を数えますが、特に南泉普願と百丈懐海のふたりが傑出しています。 しかし、このお話の時点では、百丈はまだ修行僧のひとりに過ぎませんでした。

ある日、馬大師が百丈を連れて歩いていると、野鴨が飛び去るのがみえました。 馬大師は、さっそく禅問答をふっかけて百丈を指導にかかります。

飛び去る野鴨を指さして、「あれは何だ」と。

むろん、この質問には毒があります。野鴨なんて子供でも知っていますから。 ところが百丈は、バカ正直に「野鴨です」と答えました。

もし百丈が、その質問の意味を承知で答えたのなら、かなり修行が出来ています。 何故かというと、禅は常に「直指人心、見性成仏(じきしじんしん、けんしょうじょうぶつ)」といって、人間の心の本質を問題にするからです。

つまり馬祖は、「あれは何だ」と質問しつつ、「お前は何者だ」ときいているのです。 そこで百丈が、自分が何者であるか言葉で説明なんか出来ませんよという意味で、わざと野鴨ですとトボケたのなら、たいしたものです。

そこで馬祖は確かめるべく、次の矢(質問)を放ちました。 「何処へ飛び去ったのか」。

これは、お前が自分が何者かを説明できぬというなら、お前という存在は何処にあるのか、という深い質問です。 百丈は、野鴨が何処へ飛び去ったかなど誰にも分かりはしないので、単に「飛び去った」という事実だけを答えました。それで充分だと踏んだのでしょう。

しかし、問題は百丈が、まだ野鴨から意識が離れていないということです。 禅の宗旨が解っていないのです。

「衆生、顚倒(てんどう)し、おのれに迷って物を追う」という言葉があります。 人は、ともすると外の世界の変転に引きずられて自己を見失う、ということです。 百丈はまだ、野鴨にとらわれていて自分を見失っています。

ついに馬大師は荒療治にかかりました。 「お前はここにおるではないか!」とばかりに、思い切り百丈の鼻をねじあげました。

「百丈、忍痛の声をなす」とあります。 百丈は、全身全霊その忍痛の真っ只中で、自己の在りかを発見しました。

この身心一如の究極のところこそ、言葉で説明できない自己の心が在るのであって、この説明できないという在りかたを、禅では「不可得底(ふかとくてい)」と申します。

カテゴリー