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【禅心禅話】第一回「日日是れ好日」

ホームページを通じて多くの方に禅の教えに親しみ、関心を持っていただくために、平塚塾長・長谷川塾頭によるコラム「禅心禅話(ぜんしん ぜんわ)」を定期的に掲載します。

塾長・塾頭が長年の修行と日々の実践を通して感じ取った禅のこころを、古典や禅語の解釈を交えながら、現代を生きる私たちにも通じる言葉として綴っていきます。

第一回目のテーマ(公案)は「日日是れ好日」。日々の中で心を静めるひとときに、「禅心禅話」をお読みください。

今回の公案

雲門禅師が、修行僧たちのために問題提起した。

『15日以前の事はお前たちに問わない。15日以後について禅の宗旨にかなった一句を持ってこい。』

(誰も答えなかったので)雲門、自ら代わって言った。『日日是れ好日』と。

「碧厳録」第6則

平塚塾長

雲門(864年~949年)は、ひと癖もふた癖もある禅匠です。字義通りに受け取るとマトをはずします。

「15日以前、以後」とは、「過去の事は問わぬ、未来の事についてひとこと言え」、ではありません。

過去は過ぎ去った時間であり、未来は未だ来ない時間であり、現在は、その過去と未来の接点ですから、まさに無の時間です。

つまり、時間というものは過去、現在、未来と三分割できないということです。

時間は「無」によって貫かれた、便宜上の単位の流れに過ぎません。

よって、「日日是れ好日」とは「毎日が好い日」ではありません。

ましてや「どんなつらい日々でも、心構えひとつで好い日になる」、という人生訓でもありません。

私たちの人生は、「今、現在」という絶対無の中に居るからこそ、過去や未来といった虚構の時間に執着して、足をとられてはならないということです。

「好日」とは、現在という現実の「無」にしか生きられない私たちの切実な覚悟のことなのです。

この覚悟を、専門的には「正念相続」と言い、厳しい日々の修練を指しています。

長谷川塾頭

「日日是好日」という言葉は、いかにもやさしく、すぐに理解できるように思われがちです。しかし、それを安易に「分かった」とするのはたいへん注意が必要です。知識として理解するのではなく、日常生活の中でこの言葉を自分のものとして生きることは、実際には決して容易ではありません。

白隠禅師の弟子である東嶺和尚は、『碧巌録』第六則に登場する雲門禅師の「日日是好日」について、「難透難解」であり、まさに雲門宗の大事であると述べています。これは、良い日・悪い日という世俗的な区別を超えて、今この瞬間を「好日」として受け入れるという、禅的な深い理解を要する言葉です。

禅の立場からすれば、苦しい日も悲しい日も「好日」であり、今そのままを受け入れる心の在り方こそが「好日」なのです。日々の生活の中で、簡単に「今日は良い日だった」と言うことはできません。むしろ、その日を「好日」と受け止めることができるかどうか、自らの心に問いかける必要があります。

茶道においては、一服のお茶に心を込めることが「日日是好日」の実践とされます。今ここに集中し、一期一会の精神で茶を点てることが、まさにこの言葉の体現です。

作家・吉川英治氏も、「晴れた日は晴れを愛し、雨の日には雨を愛す。楽しみのある所に楽しみ、楽しみなき所に楽しむ」と語っています。これは「日日是好日」の精神を、日常の言葉で表現したものと言えるでしょう。

「日日是好日」とは、単なる禅語ではなく、人生をどう受け止め、どう生きるかという深い問いかけです。私たちは日々の中で、この言葉の意味を問い直しながら、今を生きることの尊さに気づいていくのです。

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