禅塾の歴史
HISOTORY
長岡禅塾は、1939年(昭和14年)の開塾以来、80年以上にわたり学生や社会人に禅の学びと生活の場を提供してきました。宗派に属する寺院ではなく、公益財団法人として「人間形成」と「社会貢献」を目的に設立された、日本でも特異な存在の禅塾です。その背景には、近代日本を代表する実業家・岩井勝次郎の志と、「人を育てることこそ社会の基盤である」という強い思想がありました。
創設者・岩井勝次郎の歩み
岩井商店の創業と発展
岩井勝次郎(1862–1935)は、現在の総合商社「双日」へとつながる岩井商店を創設し、明治から昭和初期にかけて活躍しました。神戸の外国人居留地に拠点を構え、欧米との直接貿易を進めた先駆的な人物です。大正期には軽工業から重化学工業にまで事業を拡大し、日本の近代産業基盤を形成する上で大きな役割を果たしました。
経営理念と人材育成
勝次郎は短期的な投機を嫌い、常に顧客との信頼関係を第一としました。また、社員が上司に自由に意見できる社風を育み、時代に先駆けた「人材尊重」の理念を実践しました。さらに社会貢献にも力を注ぎ、郷里での小学校建設費全額寄付、京都大学への奨学資金創設、慈善財団の設立など、教育と人材育成を重視しました。これは現代でいう「企業の社会的責任(CSR)」を先取りした活動といえます。
禅との出会いと伝芳庵
禅修行の開始
勝次郎が禅に傾倒したきっかけは、住友別子銅山の経営を立て直した実業家・伊庭貞剛の存在でした。伊庭の人格の根底に禅があると知り、寒山寺の松井全方和尚に学び始めます。以後、彼は一日に三時間もの坐禅を習慣とし、自宅や出張先の宿でも修行を続けました。
伝芳庵の開設
1919年(大正8年)、神戸・御影の別荘を改築して「伝芳庵」を開きます。梅谷香州老師を招き、自らだけでなく社会人や学生にも開放しました。これは都市部における在家禅道場の先駆的存在であり、禅を通じた人間形成を実践する場でした。
禅塾構想と設立趣意
社会的背景
大正から昭和初期、日本は関東大震災(1923年)、昭和金融恐慌(1927年)、世界恐慌(1929年)と大きな混乱を経験しました。社会の荒廃を憂えた勝次郎は、禅を通じて人間を鍛え直し、未来を担う人材を育てる必要を痛感しました。
土地取得と設立趣意書
1933年(昭和8年)、京都・長岡天満宮の西側に三千坪の土地を取得。1935年(昭和10年)には「設立趣意書」をまとめ、「大乗禅の修養を通じて人格を養成し、社会を啓発する人材を育成する」と理念を明記しました。
勝次郎の逝去と遺志の継承
急逝と評価
同年12月、勝次郎は73歳で急逝し、自ら開塾を目にすることはできませんでした。彼の生き方は「マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理を禅に置き換えたもの」と評され、その清廉な生活態度はニューイングランドの清教徒になぞらえられました。
長岡禅塾の誕生
1936年(昭和11年)、財団法人「長岡禅塾」が設立され、次男・岩井雄二郎が理事長に就任。1938年(昭和13年)に禅堂・方丈・寮舎などの主要施設が完成し、翌1939年(昭和14年)に開塾式を迎えました。
宗派に属さない、公益財団法人としての禅塾の設立は当時の日本で初めての試みであり、画期的な存在でした。学生たちは大学に通いながら寄宿し、朝夕の坐禅や作務を通じて学業と修行を両立しました。
戦後の再出発
1945年の敗戦は日本社会全体に深い傷を残しました。物資不足、社会不安、価値観の混乱の中で、長岡禅塾も存続の危機に直面しました。しかし、戦前から続く質素で規律ある生活と、坐禅を中心とした修行は途切れることなく続けられ、学生たちに精神的な支えを与えました。荒廃した社会の中で「心の軸」を保つ場としての禅塾の役割はむしろ一層強まりました。
塾長の系譜
初代塾長 梅谷香州老師(1939–1950)
梅谷香州老師は、創設者・岩井勝次郎の在家禅修行を指導した人物で、塾の初代塾長として就任しました。勝次郎の理念を受け継ぎ、開塾当初から厳格な禅堂の規律を確立すると同時に、学生や社会人に開かれた場を維持しました。敗戦後の混乱期には、精神的支柱として塾を支え、塾生たちが禅を拠り所に生きる力を養うための環境を整えました。
二代塾長 森本省念老師(1950–1972)
1950年、森本省念老師が二代目塾長に就任しました。彼は京都大学で西田幾多郎に学び、後に花園大学教授として仏教学を講じた学僧であり、哲学と禅の融合を実践しました。仏教学者・鈴木大拙からも「最も尊重すべき禅者」と評され、その知的姿勢は塾に深い学問的土壌を築きました。
省念老師の時代には、学問研究と禅の修行を両立させる塾風が定着し、多くの学生が学業と坐禅を並行して進めました。戦後復興期の日本において、物質的成長と同時に精神的基盤を求める学生にとって、禅塾はかけがえのない学びの場となりました。
三代塾長 半頭大雅老師(1972–2014)
1972年、三代目塾長に就任した半頭大雅老師は、欧米での修行経験を持ち、国際的な感覚を備えた禅僧でした。米国シエラネバダ山中での修行や欧米知識人との交流を経て、従来の修行に加え、哲学・芸術と結びついた禅を展開しました。
この時期、長岡禅塾は国際的知的交流の場として注目を集めます。経済学者フリードリヒ・ハイエク、フランスの作家アンドレ・マルロー、アメリカの東洋思想研究者アラン・ワッツ、詩人ゲイリー・スナイダーらが来塾し、禅を通じた対話が行われました。半頭老師は「禅の国際化」を実現した指導者といえます。塾の施設整備にも尽力し、長岡禅塾を現代社会に対応した修行道場へと発展させました。
四代塾長 北野大雲老師(2014–2025)
北野大雲老師は、京都大学大学院で哲学を研究し、建仁僧堂で修行を積んだ学僧です。著書『禅に親しむ』『禅と京都哲学』『自覚の現象学』などにみられるように、哲学的探究と禅の実践を架橋する試みを続けています。
現代の学生が直面する多様な課題──学業、キャリア、社会不安──に対応しつつ、伝統的な坐禅・作務の規律を守り、学びと修行の両立を支えました。
今に受け継がれる想い
開塾から80年以上を経た今日も、長岡禅塾では坐禅・作務・読経を中心とする生活が続けられています。共同生活を通じて培われる謙虚さや協調性は、学業と修行の両立を支え、卒塾後も社会を生き抜く確かな力となります。
その営みを支えてきたのが、公益財団法人としての運営と、1953年に発足した「最勝会」をはじめとする産業界からの支援です。最勝会は創設者・岩井勝次郎の戒名に由来し、関西ペイント、ダイセル、トクヤマ、富士フイルム、双日など有力企業が協力してきました。こうした基盤により、塾生は経済的な負担なく学業と修行に専念でき、施設も修繕・整備を重ねて今日まで維持されています。
創設者が掲げた「禅を通じて人を育て、社会に貢献する」という理念は、歴代塾長や支援者たちによって具体的に実践され、今も変わらず次世代へと受け継がれています。